四気調神大論篇〜秋三月〜

黄帝内経 素問 四気調神大論篇
秋の養生のしかた

秋三月、此謂容平。
秋の三箇月は容平という
万物が成熟し
平かにかたちとなる

天気以急、地気以明。
天の気は今にも
何かを起こしそうな流れで

地の気は見えないものを
明らかにさせるような
流れにある

早臥早起、与雞倶興。
早寝、早起き
それは雞が夜明けとともに起き
空が暗くなると眠るようにする

使志安寧、以緩秋刑。
収斂神気、使秋気平、
無外其志、使肺気清。
こころを安寧にし
この秋の肅殺の気を緩やかにする
神気を収斂させ
秋気を平けくする
こころは外へ向けず
肺気を清らかにする

此秋気之応、養収之道也。
此が秋の気に順応させる
秋の養生の道である

逆之則傷肺、冬為飱泄、
奉蔵者少。
この自然の法則に則っとらないと
肺気を損傷し
冬には飱泄を発し
蔵するものの少ない
冬を迎えることになる

 

立秋〜立冬までが秋三月です

夏は気を外へ繁茂させ
のび行きわたらせましたが
秋は内に収斂させ冬仕舞いです

気をゆるし
いろいろな経験をした夏
それをしっかり内省させます

秋の養生がうまくいかないと
冬に消化不良を起こしますよ
と、書かれています
それは食べ物の消化だけでは
ありません
心神の活動が
心身に反映されてのことです
selfcareSupport 長塚

共生の道

前回のブログ
今年の5月に
「風邪くらいで
抗生物質は使うな」
というお達しが
国からでました
と書きましたが

これは
抗生物質に打ち勝つ
耐性菌の出現に
現在の医療が
太刀打ちならなく
なってきて
打ち出された
世界共通の方針です
(日本の初動は
ちょっと遅れ気味ですが)

でも、思います
耐性菌が 出てこないように
というよりも、
菌(感染症)に対して
菌をたたく(抗生物質をつかう)
という医療自体が
そもそも摂理に
かなっていなかったため
方針を変えざる得なかった のだと

例えが飛躍しますが
攻撃をうけて
ダメージを受けたら
害を及ぼす奴を
殺してしまえば
その後の世の中は
平和になってきたか

というのと
同等のことが
体内でも行われている
といえます

菌と戦って
武力で抑えた結果
一時的に平和なように
なるものの
そのうちに
相手も武器を開発して
自分より強くなってきたので
分が悪るそうで
割りが合わないので
撤退しよう
という方針だと思います

菌を攻撃すれば
攻撃してくる菌だけが
死ぬわけではなく
当然のことながら
生体維持に必要な菌も
死にます
その方が よっぽど
体にとっては痛手です

(一般市民が
戦争に巻き込まれ
死傷してしまえば
戦後の復興が
できなくなるような
イメージです)

そのことについては
取り上げられておらず
耐性菌対策としての
方針であるところに
もう一声!
と思うところですが ..

ちゃんと
守るべきとこは
守りを固めて
邪が入り込まないように
しておけばいい
ということです

邪が入ってきたとしても
暴れづらい環境をつくって
おとなしく生活したくなる
ようにすればいい
と思います

それに専念するに限る
ということが
あらゆる事象から
今、学びやすい状況に
あるのではないかと思います

古事記的に表現すると
「底つ石根に
宮柱ふとしり、
高天の原に
氷木たかしりて治す」
です

黄帝内経でいう
「一曰治神」です

守りを固めるのは
肉体だけではありません
むしろ
意識のあり方を
神性に守ることが
何より大事だと
日々感じるところです
selfcareSupport 長塚

平均値・偏差値

ここのところ連日
どなたかと
同じ話になるので

ブログでも
お話ししてみようと
思います

今年の5月に
「風邪くらいで
抗生物質は使うな」
というお達しが
国からでました

それだけで簡単に
コロッと方針が変わる
くらいの医療が
明治以降の日本における
スタンダードな医療です

生活習慣病についても
過去にも基準が
簡単に見直されています
もしかしたら数年後には
「日常的に高血圧なくらいで
血圧降下剤は使うな
緊急時以外の
血圧コントロールは
しないこと〜」
なんていう
お達しが
出るかもしれません
 
実際に
「血圧を下げると
高齢者は痴呆になりやすい」
とおっしゃっている
先生
もいます
当たり前です
老化で筋力が落ちたら
血圧を上げないと
全身に血を巡らすことが
できないのです
それを降圧剤で
下げてしまったら
頭の回転も遅くしなければ
いけなくなるのは
なんていうか…自明です
「管に汚れが付いてきたから
高圧洗浄しろー」
って、いってるのに
圧下げたら
管詰まるの
当たり前じゃないかって
普通の発想ですよね


うまいこと
体は調整してくれているのに
検査値だけで判断して
薬で調整して
標準値に合わせることが

大方の医療になっています
表面を繕って
数値上良さげにみせたところで
体に余計な混乱を
招くだけなのです

 


なぜ体を
信じることが
できないのでしょうか

これはまるで
学校で行われている教育と
同じ構図になっている
と、いつも思います

子供の能力を
検査値だけで判断して
平均値を上回るように努力させ
そうしないと
自分を認めてもらえないと
刷り込みつづけ
偏差値で子供をみて
個人としての資質を
殺しているのと
同じだとおもいます

なぜ子供を
信じることが
できないのでしょうか

 



 

それはやっぱり

摂理を信じられないから
なのだと思います

ひとつひとつの営みが
無駄なく巡行していて
一人一人の存在もまた
いらない存在などなく
尊いものだと

(肉体が)
死ぬときは死ぬし
生かされるときは生かされる
その営みも
無駄なく巡行している
ということ

それが信じられれば
肉体の死を
いたずらに恐れることもなく
ビジネスちっくな医療に
おどらされなくなるんじゃ
ないのかな
と思うわけです

それで
古事記の勉強会
開いたりしています

「?」
とおもいますか?

摂理は日本で「カミ」と
呼ばれています「神」というと
戦後のいたみで
敬遠するようになっている方も
おられるでしょう
(ワタシが何となくそうでした)

もしくは
新興宗教団体がおこす事件や
一神教崇拝者の一部がおこす
暴動のイメージで
避けておいたほうが良さそう
というのもあるかもしれません

でも古来から大切にしてきている
「カミ」は
敬遠したり避けたりするものでは無い
と、はっきり頭の中
整理させちゃったほうが
断然いいとおもいます

「カミ」は自分の中に宿り
自分自身であるので
セルフケアサポートでは
「自分自身でいること」と
表現しています

ですからね

ちゃんとカミさまを
重んじて生活していた
上古の時代は
くすりや検査などなくとも
衰えることなく
100歳越えで
元気でいることが
(元々の気=神気)
当たり前だったと
古典に書いているのですよ

 

逆に言えば
病が起きるのは
「自分自身でいること」
をみつけるための事象だと
診ることができます

 

そういう見方を持つと
解決していくことが
たくさんあります
selfcareSupport 長塚

「大祓詞」!

開竅薬
開竅薬2
の続きのはなし

面白半分に開竅剤を服用した
うちの子供は
しっかり邪が侵入してしまい
いきなり
色々な証が複合して現れた感じに
なったのでしたが

明日は高文連の本番

どうにかやり過ごしたい
と、処方を求めてきたので
漢方の他に

「大祓詞」を
解説したうえで
一緒に奏上しました

宣り終えた後に
奏上中に感じていたことを
子供が教えてくれたのですが

最初、喉が閉まってきて
無理やり声を出したら
今度は祝詞を
目で追えなくなってきて
それでも頑張っていたら
咳こんできたのだと

「ものすごい抵抗だね〜」
口には出さなかったけど
さながらエクソシストっぽい
と思ってしまいました

こういう言葉を使うと
オカルトっぽく
聞こえてしまいますが

ぜ〜んぶ
自分の中にあることなので
怖いことも何もなくて

単純に
自分の中に軸を据え
(御柱をたてて)
ぶれないようにすれば
ちゃんと戻ってくるところが
(御殿ミアラカが)
できるわけです

そうすれば
雑音が湧いてきたら
その都度クリーニングして
心中をきれいにしておけば
いいのですね

それがわかって
心当たり満載だった子供は
「邪の概念がわかった」
と苦々しい顔をしていました

翌日
本番を無事終えることが
できたのでしたが
この体験は大きかったようで
神妙になった子供をみて
ワタシ自身もピリッと背筋が
伸びるおもいでした
selfcareSupport 長塚

6月は夏越しの大祓え
「大祓詞」書写会
開催中

日々のクリーニングを
定着させる 古事記勉強会
古事記たずね己を照らす

どうぞお役立てください

開竅薬(2)

前回の続き

漢方には「開竅剤」
というジャンルの方剤がある

どんな方剤かというと
簡単に言えば
エネルギーの通り道を開く
ちからをもつ

おかまいなしに
低波動を発していると
共鳴で邪や賊が流入してくるので
身を守るために
エネルギーの通り道は
閉じられてしまう

すると当然
身はエネルギー切れとなり
どうにか
あり合わせのエネルギーを回そうと
血圧が高くなったり
時には
意識を失わせ
エコモードに入ることもある

そんな救急時に使われるのが
「開竅剤」になります
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結界をはるように
門を閉じたのに
それをこじ開けて
また、エネルギーを
流入させるのだから、

血圧が下がったり
意識が戻ったりしても
本当の意味では
危険なわけです

しかし
どんなエネルギーでも
入って来れば
な・ん・ら・かのチカラは
わきますので

いい薬だと
漫然と服用しておられる方が
いらっしゃるのですけれども

無防備もいいところ
クリーニングしていなければ
邪は深く侵入して
大変危険なのですね

で、
前回のはなしに戻りますが

面白半分に開竅剤を服用した
うちの子供は
しっかり邪が侵入してしまい
いきなり
色々な証が複合して現れた感じに
なったのでした

通り道が閉じないように
パワーストーンを使ったり
お香を焚いたり
色々なクリーニングのための
エネルギーワークがあるようだけれど

でも
どんなツールを使おうが
自分の意識で
邪が同調するような波動を
生み出さないよう
セルフクリーニングを
怠らないことが
一番大切なんだと思います

それが「祓え」です
selfcareSupport 長塚

四気調神大論篇〜夏三月〜

黄帝内経 素問 四気調神大論篇
夏の養生のしかた

夏三月、此謂蕃秀。
夏の三箇月は蕃秀という
万物が繁栄して秀麗となる季節だ

天地気交、万物華実。
天地の気が交わり合い
万物が華やかに実する

夜臥早起、無厭於日。
夜に寝て、朝は早起きし
夏日を厭うことなく

使志無怒、使華英成秀、
使気得泄、若所愛在外。
怒ることなく
気をのびやかに行きわたらせ
花がをふりまくように

気をあふれさせる

此夏気之応、養長之道也。
此が夏の気に順応させる
夏の養生の道である

※「秀」禾:稲 が 乃:のびる様

立夏〜立秋までが夏三月です

一般的に
何時でも早寝早起きが
励行されているけど
東洋医学的に言えば、
夏は
遅寝早起きを養生としている

朝日で目覚めたら
二度寝せずに起きちゃいましょう
この夏、あふれんばかりの愛を〜
selfcareSupport 長塚

続きがあって、、
逆之則傷心、秋為痎瘧、
奉収者少、冬至重病。
この自然の法則に則っとらないと

心気を損傷し
秋には痎瘧を発し
収べきものの少ない秋を迎えることになる
そして冬には病を重ねることとなる

真人・至人・聖人・賢人(4)

黄帝内経 素問 上古天真論篇
今回は「賢人」

其次有賢人者。

法則天地、
象似日月、
弁列星辰、
逆従陰陽、

分別四時、
将従上古、
合同於道。
亦可使益寿而有極時。

その次に
賢人と言われる人がいた

天地の法に則り
現象を月日から読み

占星して
陰陽にむかい従い
四季を分別することは
まさに上古に従って
同じく道をたどったが
寿命は延ばすことができたものの
限界があった


真人
至人、そして聖人
の記述と大きく異なる点は
こころのあり方に
触れていない点です

また、
自然の法にのっとる
宇宙の法にのっとる
というスタンスは
和する
のとは、違うのだと
あらためて考えさせられます
selfcareSupport 長塚

真人・至人・聖人・賢人(3)

黄帝内経 素問 上古天真論篇
今回は「聖人」

其次有聖人者。

処天地之和、
従八風之理、
適嗜欲於世俗之間、
恚嗔之心無、
行不欲離於世。

その次に
聖人と言われる人がいた

天地の気に調和して
自然の摂理に従い
世俗の嗜欲習慣に適応しながらも
怒る、憎む、怨む心を持たず
俗世を離れたいとは思わずに
行動した

被服章、
挙不欲観於俗。
外不労形於事、
内無思想之患。

着るものにしても、挙動にしても
世俗に合わせくらべることなく
事にあたっては
肉体を疲労させすぎるような事なく
心を悩ませるような事もなかった

以恬愉為務、
以自得為功、
形体不敝、
精神不散。
亦可以百数。

しずかに楽しみ務めを為し
自ら国を安定させはたらきを為す
そのため
肉体は敝れず
精は散じず
百歳を超えて生きることができた

 

聖人の教え1
と同様のことが
繰りかえし書かれています

真人
至人
俗世を離れていたのに対して
聖人は世俗にとどまっている
ことから

世俗に生きるワタシタチが
真の健康としての延命を望むなら
聖人を目指せ〜
といったところでしょう

けれども、本来目指すべきは
無恚嗔之心→結果として長寿
ということです
長生きしたいというのも
欲のうちになります

違う言い方をしてみれば、
長生きしたい
というのは
長生きしていない
という意識状態です

自らの意識が
全てを映し出します

次は「賢人」です
selfcareSupport 長塚

真人・至人・聖人・賢人(2)

黄帝内経 素問 上古天真論篇
今回は「至人」

中古之時、
有至人者。

淳徳全道、
和於陰陽、
調於四時、
去世離俗、
積精全神

游行天地之間、
視聴八達之外。

中古には
至人と言われる人がいた

全ての道にあつい徳があり
陰陽になじみ
四季に調和し
俗世を離れ
全神に精を積み

天地の間を楽しみおよぎ
見るもの聞くもの八方に通じていた

此蓋益其寿命而強者也。
亦帰於真人。

これだから
その寿命は益して延びていった

真人と同じく
死ぬことはなかったのである

真人、至人の域となると
その違いを理解することが難しいが
名称も違えて書き分けているので
大きく異なるところなのでしょう
次は「聖人」です
selfcareSupport 長塚

真人・至人・聖人・賢人

まだまだ
黄帝内経 素問 上古天真論篇
シリーズです
(1)(2)(3)(4)はこちら

上古有真人者。
提挈天地、
把握陰陽、
呼吸精気、
独立守神、
肌肉若一。

上古には真人と言われる人がいた
天地をひっさげて
陰陽のバランスを把握し
精気を肉体に通し
ただただ神をまもり
物心一如のようであった

故能寿敝天地、
無有終時。
此其道生。

それだから
寿命は天地を敝ることができ

死ぬことはなかった
此が道を生きるということである

次は「至人」です
selfcareSupport 長塚