本年も宜しくお願い致します

新年を迎え

と思っていたら
もう1月が終わります

自分にとって
去年は予定していた展開に
大きな遅れが生じていました

それも自分自身の
準備が整っていないことの
現れだと受け止めていましたが

自分の中で停滞と思いながらも
予期せぬ展開や
新たな出会いを享受することが
出来ていました

病気も同じような面があると思います

自分の望んでいない展開であっても
あとで考えてみれば
大きな流れの中で
大きな意味を持つことが
わかることがあります

そのようなものの捉え方が
出来るかもしれないことを
知っておくと
困難に直面した時に
慌てたり、不要に落胆したり
することが少なくなります

もっと言うならば
困難と思われる機会を
大いなるチャンスに
転換することができる
と言うことだと思います

そして、そのように
物事にあたることが
定着すると
困難を困難と受け止めることが
無くなり

その困難を
他人のせいにしたり
環境のせいにすることに
意味を持たないことが
明らかになってきます

明日から2月
春を迎え
新しい巡りの始まりです

もし新年に立てた志に
適った1ヶ月でなかったと
思われることがありましたら
調整して春を迎えましょう
よい芽吹きがおとずれます
selfcareSupport 長塚

心境のおすそ分け

子供を育てていると

…いつも言っていたじゃない…
というようなことを

今日こういうことがあって
これこれって
こういうことなんだね

と、初めて知ったかのように
教えてくれることがあります

ワタシがいくら
色々なことを言っても
結局、本人が経験して
腑に落ちたことしか
自分のものにならないのだなあ

と、つくづく思います


本を読んだり
話を聞いたりして
学んでいることは

その人の
表現の仕方を
知ったり
学んだり
していることで

その人の経験を
プチ体験するVR
みたいなもの
なのでしょう

だから自分がすでに
経験していたことに
新たな表現を得ると
ふむふむと
納得する(自分のものにする)
けれども

自分の経験していないVRだと
その時限りで
まだ自分の力にはならない
(自分のものにならない)
本当のバーチャルで
終わってしまう
のだと思います

だからと言って
自分の経験の前に
(誰かの)表現を
得ておくことが
無駄になるわけではないので

読むならば
聞くならば
良書にふれて
その方のVRをプチ体験させてもらい
テクニックなどではなく
その心境をおすそ分けして貰うと
良いのだと思います
selfcareSupport 長塚

 

祈りのチカラ

この度の地震では
たくさんの想いを寄せていただき
ありがとうございました

とても励みになり
チカラをいただいておりました
こころより感謝申し上げます


復旧見込みが
定まらない停電の中で
経験するこころの変移は
想い(祈り)のチカラを
実感する時間でも
ありました

実は

祈りのチカラ、
医療の分野でみると
心疾患者の治療において
「祈り」に
有意差が認められたという
研究報告があったりします

国内では
祈りのチカラを軽視できない
と考える先生方が
治療として「祈り」を本気で
取り入れるクリニックを
開設されるまでに至っています

「空海記念統合医療クリニック」
お茶の水博士の
モデルの一人とされる
東大名誉教授の医学博士
が発起人

日本で癌専門病院といえば
癌研か国立がんセンター
といわれていますが
その、癌研の漢方サポート科で
13年勤められてきた先生
が院長

目に見えない
意識のチカラは
計量分析することが
まだできていませんが

本当に
チカラが
在ります

見えないからといって
取るに足らないもの
として扱かっていては
まさに本末転倒です
(意識が現象に対し
先行していると言う
意味において)

良くも悪くも
本当に
想いにはチカラが
ありますので

どうか
軽んじることなく
ご自分のチカラを信じて
キレイなチカラを
発揮していただければと
思います
どうぞ宜しくお願い致します
selfcareSupport 長塚

衝撃の

先日、
古事記の勉強会
初めて参加された方が

「もしかしたら、これまで
勘違いしていたかもしれません」

と、おっしゃいました


この勘違い

気づいたときは
衝撃です

気づいてしまったときには
これまでの人生を
総浚いしていくことになります
(放置することもできますが..)

地味な作業ながら
とても気力が必要になります

めげずに
内観の視座を安定させて
いきましょう

古事記は最良の
内観教則本になると思います

古事記は
いにしえの神話ではなく
その神々のはたらきが
今、自分のこころの中で
展開されていることを知ると
とても力になります
selfcareSupport 長塚

激しい運動を
しているわけではないのに
汗がたくさん出る方が
おられます

こういう症状は
証を捉えるときに
おおまかに
「気虚」とみなします

「気虚」
すなわち
「正気が足りない」
から
汗がたくさん出る
というのは
どういう状態
なのでしょうか…

汗は体表につく邪気を
内に侵入させない
はたらきをします

本来
正気が充実していますと
バリア機能が
しっかりしていますので
邪気は侵入できません

しかし
気が弱ってくると
防衛できないので
入り込もうとする邪気を
体は汗を出し続けて
内を守ろうとするわけです

それで
運動もしていないのに
やたらと汗をかく
ということが起きます

汗をかくのにも
気を使うので
気が足りないところに
気を浪費する循環が
おきはじめているのなら
今とは
何かを変えなければなりません

今の自分を変えないのであれば
表面の邪気を解毒して
気を補う必要があります

漢方であれば
解表剤、補気剤を加えます

しかしながら
汗をかき始めるたびに
漢方をのむしかない
などと思わずに
正気を損ねている原因に
対処してあげることが
何より大切なのは
言うまでもありません


一定量の運動を
習慣にされている方で
「滝汗をかかないと
すっきりしない」
とおっしゃられる方が
おられます

滝汗で
表面より内に入り始めた
邪気を押し出すことができます

スッキリします

しかし
邪気を引き寄せる
内なる状態に対処すれば
いつでもスキッリしている
状態を維持できることも
可能なのです

「健康を保持」するのに
「滝汗をかく必要」
というのは
イコールではない
と知っておくと

健康のために習慣化した
はずの運動により
限りある肉体を
不要に浪費、消耗させないための
こころの抑えになるかもしれません

真面目な方ほど
滝汗に快感を覚えたら
要注意です
selfcareSupport 長塚

診断名をもとめることの弊害

なんか調子が悪い
といって

病院に行って
診断名をつけてもらい
安心する人がいます

あなたは病人ですよ
と言われて
安心するのです

よく考えてみたら
変ですね

調子が悪い自分
本当の状態じゃない自分
であることを
他の人にも
認めて欲しいのです

こういう状態の時
その方はまだ
治ることを望んでいません

まずそのままの自分を
認めて欲しい状態にあります

「病人であること

「自分を認めてもらえること」

になってしまうと
病気からは抜け出し
づらくなります

これは診断名がつく弊害
のひとつです

このような場合
自分自身がご自分を
認めていないことに
気づくことが
最優先になります


保険診療では
診断名がつかないと
保険請求ができないので
受診すれば
なんらかの
診断名をつけます

医師が
「大したことない」
といっているのに

「あなたは○○です」と
診断名をつけられた
瞬間からズドーンと
病人になりきってしまう
人がいます

医者という大権威に
大きな暗示を
かけられたかのようです

こうなると
“引き寄せの病気”に
かかることができます

こちらは
ショックから立ち直れば
自分の治る力が
湧いてきます

 

 

おみくじを引いて
「凶」をひくと
その日から
運が悪くなったように
感じる方は

病院に行かない方が
よっぽど早く
治るかもしれません

病院ではまず
診断名が付けられるのが
当たり前だと知っておくと
良いと思います
selfcareSupport 長塚

大きく言ってみる

今回企画しました
Comfort yoga circle

目標は
「保険診療に
スピリチュアルケアが
算定できるようになること」

大きくでましたが 😀

達成されるとこまで
生きているうちに
見れなくとも

なんらかの足がかりの
一端を担えれば
いいなと思い
やっています

伝統医療、代替相補医療
といわれる分野
のやっていることは

ツール
テクニーク
メソッド
は違えども
波動調整という
共通のこと
だと思います

波動については
測定器で状態を測る
こともできるようにも
なっていて

その場で
その時の乱れを調整できる
ようにもなっていますけれど

自らの乱れを
自らがつくり続けることを
治めなければ

伝統医療、代替相補医療
といわれる分野も
対症療法にしか
ならないことが
はっきりしてくるのでは
ないでしょうか

同じ様に
考えていくなら
対症療法だといわれる
西洋医学的なアプローチにも
スピリチュアルケアを
組み込めば
対症療法にとどまらない
医療になってくる
と思います

でも
もっと言うなら

たとえ肉体が
健常な状態でなくても
スピリチュアルケアが
できてしまえば

人にとっての
最上の状態まで
もっていけるのだと
思っています
selfcareSupport 長塚

場を変える

前のブログ
「なんじゃコレ!」
と思った世界から
見切りをつけて飛び出した
というお話しを
しましたが

こころを保つ
自信のない人にとって
場を変えることは
効果的です

エネルギーフィールドの
影響はみえなくても
物理的にあるからです

これまでも
書いていますが

私は学生の間
「社会」
という教科を
頭が拒絶して
体は蕁麻疹を出してまで
拒否したので

社会の仕組みと歴史を
知るための学びを
全放棄して
暗記の力で
受験を乗り越えました 😛

ですので
全く無知な状態で
感覚だけで
匂いのする方へ
向かってここまできました

でも
「それが良かった」
と、いわれます

感覚的に
おかしいと感じる場で
自分が保てないと
思うのであれば

退避は
全然悪いことでも
恥ずかしいことでも
ありません

自分の鼻を
信じていいのです

「古事記」
の中に
伊邪那岐命が
自ら黄泉の国に行き
自分の異心をみて
逃げかえってきた
という話があります
(黄泉かえる=蘇る)

本当の自分に
逃げかえれば
いいのです

そして
自分のうちに
揺らぐことのない
柱を立てて
力をつければ
良いと思います

あのときの自分に
偉かったと
ワタシが思えるのは

とても良いお給料
だったのにもかかわらず
(お金の)先のことを
何も考えずに
場を見切れたこと
だと思います 😀
selfcareSupport 長塚

靴のぬぎはき

我が家でのこと

kutsu_nugu_bad

子供が靴を脱ぎっぱなしで
家にあがったので

「靴が揃ってないよ」

というと

「揃える必要はあるのかな」
「自由でいいんじゃない?」

という

なにか
自分の楽なことを
自由と錯誤しているようだ

「次に履く時に
履きやすいように」
と靴を揃えるこころ

そういう
思いやりのこころを
持った生活をしたいか
どうか

自分だけなら
いいじゃないか
と乱すうちに

そのこころが
養われるチャンスを
逃すことになること

マナーは
そんな風に出来上がって
きているのだから
習慣を軽んじて欲しくない

と話しました


kutsu_nugu_good
「外ではできているから」

と話す子供に

それなら
尚のことと

自分に対して
思いやりのこころを
持つことが
できないのに

外でできるという
道理はない
とはなします

外で
マナーを
知っている人然として
と靴を揃えても

それは
パフォーマンスとして
わざわざやっている
ということに
なってしまうし

人の靴を揃える時には
やってあげているという
偽善になって
しまうでしょう
shoes_03

でも何より
愕然と思うことは

これまで育ててきた中で
自然とそのことが
身についていない
子供の姿に

靴の脱ぎ履きは
出来ていたとしても、
同様の有様を
自分の内にみてしまう
ということです
selfcareSupport 長塚

なんじゃコレ!をみたら

前回のブログ
統合医療に向けて
の中で

自我の要求を
果たすために選んだ世界は
自我で運営される世界を
みせてきました
と書きました

なんじゃコレ!

と思わせる
私の垣間見た
アカデミックな世界

それは
研究費を
得るための研究を
毎年重ねている
実情でした

私は助教授に
「なんで重箱の
隅をつつくような研究
ばかりするのですか?」

今思えば随分と
酷いことを素面で
言いました

チャレンジも
フィロソフィーもない
必ず論文になる
目星のついたテーマの研究を
海外の似たような思考の
研究者と投稿の
スピードを競いながら
繰り返すように
行っていたことについて
言ったのですが

そんな私の不敬な
言動に対して

助教授が
「重箱の隅をつつくことは
いけないことですかね」
と、
怒ることもなく
笑いながら平然と
返答されました

そのことが
ショックで
私は研究室を去ることを
実は決意したのでした

こんなエピソードも
あります

ある大手企業が
共同研究を申し入れて
きたのに
それを断った助教授に
「なんで断っちゃうんだ」
と、酔って絡んだことが
あるそうです
(↑全然覚えていない)

ちなみに
人生で記憶をなくす
飲み方をしたのは
3回だけです(多すぎか)

翌日
「すごかったよ」
と、助教授にも
助手の先生にも
言われたのですが

「大変だから」
というような趣旨で
共同研究を
お断りしたことについて
やりたい研究ができる
チャンスなのに
断るなんてと
その表面だけを捉えて
絡んだようでした

今思うと
下手に利害関係を結んで
不本意な研究をすることに
なって忙しくなるより
目先のお金にとらわれなかった
助教授の判断は
尊かったのだろうと
思います

アカデミックの世界を
離れたことについては
本当に無知な子供が
言いたいこと言って
出て行っちゃった
という感じで
無責任を極めていますが
(親のこころ子知らず)

その場を離れることで
私は次の場である
医療の現場を
見ることができました

わがままな私を
入る時も出る時も
温かく見守って
くれた研究室自体には
感謝の気持ちで
いっぱいなのです


その後
国立大学が法人化される
という事態をみて
本命のメインの研究を
行える研究室が
少なくなっているのは
日本全体の問題になって
いるのだろうなと
なんとなく感じました

しかしそれが
本当に直面している
大きな問題なんだな
と改めて思わされたのは

大隅良典博士が
ノーベル賞を
受賞されたときの
インタビューです

ここに
自分のエピソードと
並列するように
書かせていただくのは
憚るべきところですが
無知を盾に
遠慮せず書かせて
いただきます

インタビューの中で
大隅博士は
学術界の危うい現況を
端的なお言葉で
コメントされておられました

受賞時のコメントを
探して貼っておこうかと
思ったのですが
博士のその続きの言葉を
見つけましたので
ご紹介します

こちらは
日刊工業新聞の記事
ですが
博士の言葉に
「生物学が医学に
従属してしまった。
医学に役に立たない
生物学は存在しない
ことになっている」
とあります

すぐにデータ化、商品化
されないものは
テーマとして
あげられないので、
真理の解明のための科学は
すぐに見えるものしか
真理でないかのように
なっているということ
ではないでしょうか

それが顕著にでてくるのは
医薬業界になってしまう
というのは
もう、最初から
決まっていることに
なります

学術の世界が
目先の論文の数や
研究内容の
見栄えや過大主張に
偏重していったことは

科学を支える側
支えられる側の両者で
作り上げたものでも
あります

目先に見える
表面だけを
重視するあり方は
今、ものすごく
蔓延しています

我が子に対してすら
そのように臨む親が
多くなってしまったのでは
ないでしょうか

先に引用いたしました
日刊工業新聞の記事の中に
『役に立つ』ことを
求められてきた弊害が
現れている
とあります

その
表面だけを
重視するあり方

根っこのないものを
一生懸命つくっている
あり方を

追い求めるように
なった下地
どこでできたか、
皆で考えてみなければ
なりません


 

本来望んでいる姿との
隔たりが
社会現象としてあちこちに
見られるようになっている今

仕方ないと
目をつぶって
結果として仕組みつくりを
共にしてきたことを
認め

なんじゃコレと
見えた世界を
目を開いて直視して
動くことが
求められていると思います

この隔たりを補正するよう
動かなければ
その補正の結果が出てくる前に
子供たち、孫たちの代は
倒れてしまう可能性のある
ギリギリのところに
あるかもしれません

現に今は
ギリギリのところにある
といいますより
若者の死亡原因が
「自殺」という現状は
ただならぬ状態にあります

下地
たとえ組織に所属していても
個々の者が
集まりつくっています

ひとりひとりが
根をはるしかありません


大隅博士は
啓発とその実行として
財団をつくられておいでです
大隅基礎科学創成財団

製薬メーカーが
こころから賛助するような
時代に変遷することを
願うばかりです

個人でも賛助が可能です

自分に対する
意志表明として
未来へ投資されるのも
良いのではないかと
おもいます

これも「祈り」の
ひとつのかたちです
selfcareSupport 長塚